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不思議な芸名の蛟龍斎青雲
人 物
蛟龍斎 青雲
・本 名 井関 忠鐘
・生没年 1892年11月1日~1941年以降
・出身地 ??
来 歴
蛟龍斎青雲は戦前活躍した浪曲師。元々は「桃中軒青雲」といい、桃中軒雲右衛門の弟子であったが、ふとしたことから「蛟龍斎青雲」と改名した。雲右衛門張りの芸を得意としたという。
生年月日と本名は『芸人名簿』から割り出した。「桃中軒青雲 三 竹川八峰田方 井関忠鐘(明治二五、一一、一)」とある。
また、経歴が『読売新聞』(1929年1月17日号)に出ていた。
蛟龍斎青雲は故雲右衛門の弟子最近まで桃中軒を名乗ってゐたが、どう発心したのか、蛟龍斎と改名した、十七年の間雲に薫陶を受けてゐたが、大正五年雲が郊外高田の寓居で逝ってから一本立ちとなつて今日に及んでゐる、青雲、蛟龍斎の看板を売り出すべく近いうち市村座で初看板披露をする筈、十八番物は義士伝、水戸斎昭、天草四郎と由井正雪等だ
逆算をすると1899年に雲右衛門に入門したという事となる。相当な古株ではないか。
雲右衛門門下時代は、師匠について全国を巡業したようである。この頃、師匠の家に出入りしていた大陸浪人・宮崎滔天と仲良くなっている。
1916年11月7日、雲右衛門の臨終に立ち会い、その後の納骨や法事に参加している。
雲右衛門亡き後、多くの兄弟弟子が「二代目雲右衛門」を自称する中で、青雲は一人独立独歩の道を歩み始めた。その後は師匠譲りの「雲節」と義士伝を武器に、全国を巡業したり、劇場に出演を続けた。
売り出しの頃は随分と山っ気があったそうで、野次や喧嘩にも恐れない――一種の気骨やハッタリを持っていたと聞く。
青雲と面識のあった漫才師の東喜代駒は、自身の会報誌『きよこまファン』(17号)の中で、
雲右衛門の門下に青雲という浪曲師がいた。のちに蛟竜斉と号し書道をよくした。なかなか気骨のあるサムライだが、どういうものか客にウケがよくない。この青雲が浅草金竜館の浪曲大会に一流の人気花形に割り込んで出演した。東家楽燕、木村重友ベツ甲斉虎丸、これは関東浪界の三羽烏で、とぶ鳥落とす勢い。そのほか集ったのは当時の一枚看板、その真ん中に挟まれて桃中軒青雲。あまりなじみのない名前だから、客が承知しない。
おそまつ乍ら一席 といったとたんに引込め?
客席からモーレツな野次がとんでさんざんな目に会った。ふつうの芸人なら、これで完全立往生、ちょうど時間となりました。そっぽを巻いて降りてしまうところだが、青雲は違つていた。どんな野次がとんでもビクトモしない。ロー/\と声を張り上げて唸り出した。野次は益々激しくなるしかし青雲はどこ吹く風と済ましたもの。なにがなんでもこの一席を弁じたてないうちはテコでも動かない面魂だその内お客もくたびれたのか、野次が一ツへり、二ツへりしまいにひつそりしてしまつた。青雲こゝぞとばかりに調子を出して音声をはり上げ、大熱演。ついに長講一席をやつてのけた。あれだけ野次を飛ばした客席から割れるような拍手が起った。これには大家連も驚いた。
「よくやツた」「偉いぞ立派なものだ」
口々に賞めたたえて、まるで凱旋将軍を迎えるような騒ぎ。あとで青雲に会ったら、青雲先生すまして曰く
「ウーム金竜館では客を鍛えてやつたよ」
という逸話を紹介している。野次にも荒い客に一切驚かない所に青雲の強さがあるのだろう。
震災後は、放送やレコードにも積極的に参加し、メディアの恩恵を被ったという。こうした地道な活動が人気を獲得する一因になった模様である。
1928年、蛟龍斎青雲と改名。改名に先立ち、師匠の眠る妙国寺で「自分は蛟龍斎青雲と改名する」と報告。改名の背景には師匠の遺言をそむいてまで二代目を襲名しようとする兄弟子たちへの嫌悪があったと聞く。
命名は後援会の有志に付けてもらったらしく、「蛟龍池中の水のものならず、雲を得て龍を望む」という古い言葉から着想を得た――と『都新聞』(1937年12月15日号)にある。
1929年1月17日、JOAKに初出演し、「義士伝・大石東下り」を口演。
1929年6月、ビクターから『南部坂雪の別れ』を発売。
1929年10月、ビクターから『天草四郎と由井正雪』を発売。
この演題に関しては、『大阪教育大学紀要第I部門人文科学63(2)』掲載の北川純子氏の論文「宮崎滔天による浪花節台本『天草四郎』をめぐって」に詳しい。一部引用をする。
青雲による〈天草四郎と由井正雪〉の音楽的な側面としては、使用されている「節」に、自由リズムの節と、等価の拍に乗る節を区別することができる。たとえば表4に示した箇所では、「肥後と薩摩の国境……」が自由リズムの節、「津名木、佐敷の二太郎も」から「啜りつつ」までが等価の拍に乗る節である。浪花節の「節」は演者ごと、機会ごとに異なり、青雲による〈天草四郎と由井正雪〉のレコードは、たまたまその時点で彼がそう演じたものにすぎないが、その点をふまえた上で、冒頭の自由リズムの節の採譜を譜例1に示す。詳しく論じる紙数のゆとりはないが、節回し、三味線の小旋律型とも、雲右衛門の浪花節と似た運びとなっている。
滔天「全集」での「天草四郎』解題によれば、宮崎家に残されていた自筆原稿の巻七から巻九の表紙には 「父滔天著、児夢之助口演」と記されているという(宮崎・小野川(編) 1973:494)。夢之助は滔天の次男・震作のことで、青雲と同じく雲右衛門臨終の場に居合わせ(表1、 No.74)、 その後、1918年には二世滔天として、 一心亭辰雄らととともに信州での「浪花節名人大会」に出演している人物である(No.82、83) 。青雲と『天草四郎』との関わりに、震作が関与していたのかどうかについて、現時点では手がかりが得られていない。ただ確実に言えるのは、青雲自身が『天草四郎』に対して一定の評価をしていなければ、彼はこれをレパート リーに取り入れようとはしなかっただろう、ということである。
意外な特技に「書道」があったそうで、チラシなどでは「書道の権威」などと書かれていたりもする。よく判らない。
1930年1月、ビクターから『大石山鹿護送』を発売。
1930年12月、ビクターから『村上喜剣』を発売。
1931年3月、ビクターから『徳利の分れ』を発売。
1932年10月20日、JOAKより全国中継で『由井正雪と天草四郎』を口演している。
1934年10月10日、旧友・宮崎滔天の遺族の震作と舞台に上っている様子が確認できる。『都新聞』(10月4日号)に、
▲働く會演藝會 十日夕六時市政講堂に 浪曲(滔天、八道、青雲)万才(主水、米子)玉乗(マストン)浮世節(ぎん蝶)漫劇(東喜代駒一座)新内(佃鐵、伊藤)
1935年7月、ポリドールから『倉橋傳助』を発売。
そのほか、マイナーレコードなどからも数枚「義士伝」を出している。
1936年5月より半年ほど、満洲や朝鮮の前線に演芸慰問へ出発。『読売新聞』(11月29日号)に
「五月以来満洲へ皇軍浪花節慰安の旅をしてゐたが六十三ヶ所で口演し去る二日帰京した、そして今夜の放送に続き来月一日夜日比谷市政講堂で満洲慰問祝祭報告會を催す曲師は筑波雲の妻静子である」
多くの雲右衛門門下が夭折・廃業する中で、酒井雲、筑波雲、峰右衛門などと共に独自の孤塁を守った。実力はあったようで、番付にも三役や幹部として記録されている様子が確認できる。
1937年夏、五カ月にわたって中国戦線や満洲の皇軍慰問に出発。「義士伝」を読みまくったという。
「東西浪花節真打人気競1928年度版」では「前頭」になっている。
「帝国浪曲技芸士銘鑑1931年版」では「東西検査役若年寄」になっている。
「東西浪花節真打人気競1934年版」では「別座」となっている。
「帝国浪曲技芸士銘鑑1939年版」では「客員」となっている。
「大日本浪花節真打人気競1941年版」では「幹部」としてまとめられている。
しかし、この直後に太平洋戦争が勃発し、十年ほど番付が作られなくなった事もあって、謎が残る。
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