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天才少女を持った親・鈴木蓉峰
人 物
・本 名 鈴木 銀三郎(銀次郎ともいう)
・生没年 1884年7月16日~1942年4月6日
・出身地 東京?
来 歴
鈴木蓉峰は戦前活躍した浪曲師。大工から浪曲師となり、「浪華蓉峰」の二代目として活躍。晩年は妻との間にできた三女の鈴木照子の才能を見抜き、見事に娘を浪曲界の天才少女として売り出す事に成功した。
芝清之『浪曲人物史』によると、元々は大工であったが、浪花節が好きで浪花亭峰吉に入門。
ただ、師匠分は峰吉よりも浪華蓉峰だったらしく、『芸人名簿』の中では、「浪花東洋 三 同二四 鈴木銀次郎(明治一八、七、一六)」と、「浪花」の屋号で登録されている。
また、当初は雲右衛門に弟子入りを乞うたらしく、『読売新聞』(1936年5月26日号)の中に、
浅草区芝崎町二四鈴木銀次郎さん、つまり久子さんのお父さんは若い頃雲右衛門に弟子入りした程の浪曲好き、それからお母さんのきんさんも亦浪花節が御飯よりも好きと云ふのだから……
とあるのが確認できる。何処まで本当の事かは知らない。
長らくこの芸名で活躍していたが、兄弟子で師匠分の蓉峰が1920年に腕を切り落とされた。
間もなく蓉峰が事実上の引退をしたことに伴い「浪花蓉峰」の名跡を譲られた。ただし、後年鈴木蓉峰と改名している。理由は不明。
この頃、結婚。三女に恵まれた。妻のきんは、当時としては珍しく浪曲に関係のない人物だったという。
浪曲師としては中看板だったそうで、主に寄席で活躍。『伊達騒動』『栗山大膳』などお家騒動が得意だったという。
ただ、昭和に入ると浪曲の高座には余り出なくなり、仲の良かった港家小柳丸のマネージャーをやっていたという。
1925年2月17日、三女の久子誕生。
この子は幼い頃から浪曲が好きで、『日布時事』(1936年4月18日号)によると
照子さんは東京浅草の鈴木銀三郎さん(五二)の三女であるが、七八歳のときから母親きんさんが寝物語りに聴かせる浪花節の一句々々を暗記し、父親には内密では母親が取り出した浪花節の台本を母親の素人稽古ですつかり覚み、十一歳のころからは浅草区内の児童学芸会や同窓会で一席うなるやうになつたといふまさに可憐な浪曲の天才である
一方『東西浪曲家大名鑑』を見ると、「蓉峰は久子の天分を発見して、彼女をプロの浪曲師にすべく、久子が7歳の年に松戸の映画館で初舞台を踏ませ……」とある。
「鈴木照子嬢」としてデビューした娘は、めきめきと頭角を現し、寄席や浪曲大会を掛け持ちする程の人気を集めた。10歳の時にはコロムビアの専属となり、レコードも飛ぶように売れた。
思わぬ天才少女をうみ出した蓉峰夫妻は一躍生活も楽になり、いつしか舞台を退いて、照子のマネージャー・指導役になったという。
1937年には、ハワイの興行主に添われてハワイ巡業。蓉峰は出かけなかったというが、代わりに妻が保護者代表として出かけ、ハワイを半年回った。
この時にもすさまじい契約金や何やらが支払われたそうで、蓉峰は安楽に暮らしたという。
その後も娘の躍進劇は続き、「天才少女・鈴木照子」の名をほしいままにした。戦時下という事もあってか、愛嬌のある照子はアイドルのように扱われ、出演する劇場や寄席は大入り満員を記録した。
蓉峰夫妻は鼻高々だった事であろう。
しかし、太平洋戦争が勃発し、世間も浪曲どころの騒ぎではなくなってしまった。照子の人気は相変らずであったが、物資不足や統制で家庭にも闇が迫っていた。
そうした心労も重なったのか、蓉峰は1942年に倒れた。
倒れて入院した時、蓉峰は慶応病院の特別一等病室に収容され、最高の治療を受けたという。照子の人気と収入が、これだけの事をやってみせたのだという。
しかし、薬石効なく蓉峰はそのまま息を引き取った。57歳の若さであった。
大スター照子の父が死んだとあって、浪曲界全体を巻き込んだ大きな葬儀が決行されたらしく、当時の大幹部や政治家、文化人、一般人まで参列するそれはそれは盛大なものだった。
芸人としては中看板で終った蓉峰からすれば、破格の扱いだったといえよう。
戦後も照子は人気浪曲師として舞台に出ていたが、戦後の苦労で体調を崩し、そのまま一線を退いた。
末娘ふみ子は三代目広沢虎造に嫁ぎ、曲師として幸せな日々を過ごしたという。
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