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信州の快男子・山川八道
人 物
山川 八道
・本 名 川口道次郎
・生没年 1879年6月14日~戦前?
・出身地 長野県
来 歴
山川八道は戦前活躍した浪曲師。義太夫語りから浪曲師に転向し、独立独歩で浪花節の研究と修業に励んだ末、義太夫風の三味線や音調を元にした独自の節まわしを開拓、人気を集めた。
出身は長野県。生年月日は『芸人名簿』から割り出した。経歴は『読売新聞』(1926年2月19日号)のインタビューに詳しい。
親の意志に叛いて今日を築き上げた 浪曲家山川八道君
好きこそ物の上手なれ、そんな事はどうか知らないが今日浪曲を一席弁ずる山川八道君は幼い頃から三弦に親しみ、長じて喉に使ふ事に興味を持ち十一歳から義太夫に凝り出し見台を前に朝夜唸つたものだが、それが中年にして浪曲の隆盛を来すや一躍義太夫の柵を乗り越へて浪花節の畑に入り天涯孤独師を拝まずして現在の境地を開拓したものだといふ、然し山川君は藝道のために慈悲ある父母に対して叛逆の子とならざるを得なかつた信州の某豪家の次男として生れた山川君は親の意志に背き涙を呑んで今日の境遇を築き上げたのであるが、御両親も今日の氏の盛名を聞き又きようのラヂオを聞かれたら内心満足でゐられるだらう
幼い頃から義太夫にハマり、セミプロのような形で活躍を続けていたようであるが、1900年代より勃興し、一躍センセーショナルを引き起こした浪曲に興味を示し転向。
親は「義太夫は兎も角、浪花節なぞ」と激怒したらしいが、親の意見を振り払って上京。寄席に出るようになった。
しかし、師匠につかず、独立独歩。その上、義太夫調をもとにした独特の浪曲を展開した事もあってか、長らく辛酸をなめる事となった。
長らく寄席の中堅として細々活躍していたが、これではよくないと思ったのか、1911年頃より浪曲の改造に着手。旅回りに出る事となった。
その中で、独自の浪曲を磨き上げ、一般大衆にも受けるような作品や芸風を開拓した。
芸風は、義太夫を元にしただけあってか、重厚で男っぽい所を味わいとしたという。豪快な節まわしを生かして「忠臣蔵」「佐倉義民伝」「乃木将軍」「柳生二階笠」など、如何にも力強い演題を旨としたようである。
1917年8月15日より20日まで5日間、大阪中座でリサイタルを開催。結構な客を入れたという。
これに自信をつけたのか巡業を続けながら帰京。東京の贔屓や仲間を集って、新たに後援会を作り、旗揚げを決意。
1918年4月25日より3日間、銀座新富座に出演でリサイタルを決行。これで多くの客を入れたのを機に、注目されるようになる。
この辺りの事は都新聞に詳しい。
◇浪界の不振に慨し、六年間、節調歌曲の研究に漸く一家を成したる山川八道は松竹の後援にて、来る廿五日より三日間、新富座に開演し、其の声量の豊富と美声は雲の全盛時代を偲ばしむる由にて、弁護士団、魚河岸、兜町よりの応援盛んなりと。
『都新聞』(4月16日号)
◇義太夫を止めて六年間浪花節の改良に苦心したといふ山川八道が、二十五日から三日間、新富座で世間の批評を仰ぐ筈だそうだが、二十一日の夜の試演を聴いた。先づ驚かされるのが声量で、恰ど雲右衛門の全盛期より以上であらうと思はれた。それに浪花節を義太夫の方へ引寄せやうとする希望だとかで、三味線も太い弦を用ゐ、語って行くうちに此趣はちよい/\と現れた。しかし、全体から云へば、雲の節で、恰ど語りものが「赤垣源蔵」であつた為め、兄の塩山が仙台候の邸前へかけつける辺は雲丸出しであつた。兎に角、この人の強味は義太夫で、十分腹が出来てゐるだけに、言葉も巧に語り分け、地との連続もよくつき、大薩摩のやうな節までも取入れた処などは面白いと思ふ。只、欲にはもう少しケレンを交えた方が前受けが楽であらう。
『都新聞』(4月23日号)
なお、開演に当たって久保田金僊から富士と大川の緞帳を貰い、高島屋より富士の呉服細工を貰ったという。出だし好調だったといえようか。
1918年8月25日より9月1日までの1週間、京都南座でリサイタルを開催。助演には大阪の大御所・広沢巌輔を招いて共演となった。これも相当な客を入れたらしい。
この三都での成功をもって、めきめきと頭角を現した八道は一躍幹部として踊り出た。以来、大会などにも出られるようになった。
苦労をして成り上がっただけに、人柄も「快男児」というべき気風の持主で、人望はあったらしい。
その後は劇場と寄席で活躍。男っぷりのいい芸を見せていたという。
1926年2月19日、JOAKに出演し、『大石妻子別れ』を口演。当日の『読売新聞』で自らの芸を語っている。
私のは絃本調子 山川君語る
浅草馬道に山川八道君を訪へば同君は語る「私のは義太夫が地ですから浪花節の中にも矢はり其の調子が入つて来ます、普通の浪花節の三味は水調子と云ふものですが私のは本調子です、節廻しなどは相当違ひますら今日の聞き所と云へば文句に入る小唄が一つあります、その小唄でも聞いて下すつたら當たらずさはらぶでせう」と軽い皮肉を云は其の小唄といふのは「ふけて廓のよそほひ見れば」云々の処である因に山川君は武士物が大の得意で尚新しい現代物には一種特別の味を見せるとの事である
1932年の夏から冬にかけて満洲朝鮮を巡業し、軍事慰問にも参加している。
この時、出発直前にトラブルがあり、懐に残ったのが6銭だけ。しかし、「金儲けの旅ではない、異国の邦人を慰める旅だ」と意気込んで、無一文同然で満洲へ来た。ふと街中で出会った一面識のない紳士と意気投合し、自分の来満目的を話すと紳士は感動し、「少ないが貰ってくれ」と金をくれた。それを元手に八道は満洲を回り、講演で金を稼いで一層の名声を上げた――という記事が、『ユタ新報』(1933年1月1日号)に出ている。
1933年7月、キングレコードから『玉川上水由来』を吹きこみ。これが唯一のレコードだろうか。
1940年頃までいたらしいが――消息不明となる。没した模様か。
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