一時は雲右衛門の後継者・桃中軒繁右衛門

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一時は雲右衛門の後継者・桃中軒繁右衛門

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 繁右衛門しげえもん
 ・本 名 高木 朝之助
 ・生没年 1884年5月10日~1930年代初頭?
 ・出身地 ??

 来 歴

 桃中軒繁右衛門は戦前活躍した浪曲師。名前の通り、雲右衛門の高弟として活躍。一時は雲右衛門の後継者に望まれた事もあった。さらにその前は浪花亭駒造の弟子で、浪花亭綾造と名乗る人物であった。

 生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。「桃中軒繁右衛門 高木朝之助(明治一七、五、一〇)」とあるのが確認できる。

『浪曲家の生活』によると、元々は「建具屋の職人」だったという。それが明治30年代に浪花亭駒造に弟子入りした模様か。その辺りの経歴は謎が多い。

 1907年に師匠の駒造が死去。その前後で師匠の前座名であった「浪花亭綾造」を襲名している。

 その後は関東派の新鋭として寄席を中心に順調な活躍をしていたが、桃中軒雲右衛門にスカウトされ、彼の門下生のような形で動く事となる。浪花亭を離れた理由は不明。

 1913年12月16日より行われた赤坂一力亭の公演で「桃中軒繁右衛門」を襲名。襲名の席には雲右衛門の弟、風右衛門が並んだ。

 一時期は雲右衛門の養子・後継者として望まれ、楽燕、巴右衛門と共に厚遇を受けた。『日本浪曲史』の中にも「 雲右衛門には遺子があったが、芸の後継として楽燕を養子に雲太夫としたほか、浪花亭綾造を繁右衛門に取立てたり、巴右衛門を迎え……」とある。

 しかし、この関係はすぐに御破談となり、繁右衛門は一介の弟子にとどまった。理由は不明。

 1916年11月、雲右衛門死去。雲右衛門の臨終には居合わせなかった。

 雲右衛門死後は関西に一時期おり、浪花節小屋に出演していた。後輩の日吉川秋水に『国定忠治』を教えたところ、ハチャメチャなケレンにされたという逸話を残したのもこの頃である。  

 梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によると、

 私が松島広沢館で修業中の大正七年六月ごろのこと、桃中軒繁右衛門から秋水師が国定忠次のタネを口聞きのツケ読み(その日聞いた読物をすぐ舞台にかける)で演じた。それもお互いが酒を飲みながら、繁右衛門が語る、秋水が聴く、それが翌日秋水の舞台にかけられると、ユウモア満点の忠次に改作されていた。

 その後は関西の寄席と巡業で暮らしていたというが、あまりぱっとする事はなかった。

『浪花節名鑑』に出ている「昭和2年浪曲番付」には、桃中軒白雲や中川海老蔵と並び、「新元老」として囲われている。

 1935年の番付には名前がでていないので、その間に没した模様か。

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