三羽烏の広沢菊一文字

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三羽烏の広沢菊一文字

 人 物

 ・本 名 朝国 ?
 ・生没年 1905年頃~戦後?
 ・出身地 大阪

 来 歴

 広沢菊一文字は戦前活躍浪曲師。麒麟児と謳われ、人気を集めたが人気はそこまで続かなかった。母の姉妹が廣澤小富・菊春夫妻。二代目廣澤菊春と天龍三郎はいとこにあたる。

 経歴はやたらなぞが多いが、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』に、

 摂津弁天のパトロンが朝国太一郎という、大阪玉造東雲席の席主、菊春師の妻である小富さんと朝国氏の細君が姉妹である関係で、菊春師は東雲席のすぐ隣りに住んでいた。大正中期に、彗星の如く少年浪花節の人気を一人でさらってすぐ消えた広沢菊一文字は、朝国氏の子息である。

 と寄席の席亭の息子であることが記されている。母の兄弟が、廣澤小富という曲師で、小富の夫が廣澤菊春。二代目廣澤菊春、天龍三郎とは実のイトコに当たる。

 母の関係から幼くして初代廣澤菊春に弟子入り。菊一文字と名乗る。

 また、どういう関係か摂津弁天の養子に入った事もある。『大内町史』に――

夏祭りにはよく浪花節、それも旅回りの浪曲師によって演ぜられた。もともとこの地方は浪花節の盛んな土地柄で、二代目吉田奈良丸(大和之丞)の門下で嘱望されながら若くして世を去った吉田奈良右衛門、女流名人摂津弁天の養子となった菊一文字、女流の京山華若、戦後NHK専属となり現在九州に住む椿三四郎がでた。

 早くから天才児として謳われたそうで、16歳にしてレコード『安兵衛の婿入り』を吹き込んでいる。

 菊春と共に看板を割って全国を歩いたという。

 1921年4月、ニットーより『大石少年時代』を吹き込み。

 その後も関西を中心に活躍し、広沢晴海、吉田一若と共に「関西浪曲三羽烏」と謳われた。ただ、90近い長寿を保って人気を集め続けた廣澤晴海、吉田奈良丸を襲名して関西浪曲の大幹部となった吉田一若と比べると人気はちょっと劣る感じがある。

 1928年5月12日、JOAKに出演し、『村上喜剣』を放送。当日の読売新聞に、

 看板の嘘ではなく全く天才的の菊一文字
 お得意の「村上喜剣」で初放送
 此の頃のAKの浪花節の顔ぶれは大阪親友派が殆ど独占してゐる浪花一右衛門然り酒井雲然りけふも亦親友派の廣澤菊一文字が放演する然も初放送だ其上突然放送局の依頼だといふので義士外伝村上喜剣の一席を唸る譯。この菊一文字は親友派の重鎮廣澤菊春さんの愛弟子で子供の時から浪曲界に身を投じて看板だけでなく実際に天才の誉れがある一昨年浅草の遊楽館で京山圓吉等と語つて東都の浪花節ファンの人気を集めた未だ二十三歳の若さだが藝は洗練されてしっかりしたものだ、今後鶴見横浜を打って下阪するといふのでけふはお名残りも兼る譯だ

 ここから年齢を逆算した。

 1930年8月10日、11日連続で広島放送局に出演し、「幻滅の忠治」「武士の娘」を放送している。

 1932年6月24日、広島放送局より「夏の夜話・恋の神易」を放送。

 1933年4月19日、広島放送局より「梶川の大力」を放送。

 1933年8月7日、松江放送局より「大石の松山城受け取り」を放送。

 1933年8月10日、広島放送局より「大石江戸探り」を放送。

 1940年代頃まで、番付などでは小結や関脇としてランクインしているが、戦後途端に消息を絶ってしまう。戦後大ヒットを飛ばした廣澤菊春・天龍三郎兄弟に比べると些か虚しいものがある。

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