酒豪・酒仙の浪華軒〆友(二代目)

酒豪・酒仙の浪華軒〆友(二代目)

 人 物

 浪華軒なにわけん 〆友しめとも
 ・本 名 平田 市太郎
 ・生没年 1899年~1971年12月2日
 ・出身地 東京

 来 歴

 浪華軒〆友(二代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。元々は木村重友の門下生であったが酒乱で破門され、浪花亭奴の門下に移籍。奇才と謳われた「浪華軒〆友」を襲名し活躍した。粋でいなせな関東節と啖呵を得意とし、寄席打ちの名人としても活躍。酒豪としても知られた。

 芝清之『浪曲人物史』によると、四人兄妹の長男。幼いころから浪曲が好きで、15歳の時に木村重友に入門。「木村重成」と命名される。

 師匠の関東節を上手く盗み、粋でイナセな節を練り上げて10代にして注目されたが、既にこの頃から飲酒の気があり、酒乱ばかり起すために重友の怒りを買って破門される。

 重友門下を追い出された後は、しばらくの間、武蔵家嘉市の家に居候していたが、嘉市の兄弟分であった売り出しの浪曲師・浪花亭奴を紹介され、再入門を果たす。

「浪花亭〆奴」と改名し、寄席や巡業で芸を磨いた。1924年頃に一枚看板として披露を行った。

 如何にも江戸前の芸で「祐天吉松」「野狐三次」「伊賀の水月」など侠客物や英雄物を得意として読んだ。哀愁帯びた節まわしと歯切れのいい啖呵に観客は熱狂し、大看板も時にはけられるほどの実力を誇った。

 とにかく声がよくスケールもある所から、浪花亭奴に見込まれ、師匠の娘と夫婦になり、事実上の親子となった。義父となった奴の後援を受けてめきめきと頭角を現した。

 一時期は寿々木米若、東家左楽遊(三代目楽遊)と共に新進三羽烏と謳われ、二人をも出し抜くほどの人気を集めていた。

 1927年11月13日、JOAKに出演し「伊賀の水月」を放送。同日の『読売新聞』の詳しい経歴が出ているので引用しよう。

 浪曲界の元老浪花亭奴に十五歳の頃から入門し持ち前の美音と芸のしっかりしてゐるのに師匠奴さんも惚れ込んで愛娘の婿としたほどの新進の語り手である今年とつて廿八歳十八番物にはけふ語る伊賀の水月、祐天吉松、天保水滸伝等がある

 1930年2月15日、JOAKに出演し「野狐三次」を口演。

 1930年2月22日~28日、浅草萬成座で「二代目浪華軒〆友襲名披露」を実施。師匠の奴、浪花亭綾太郎、東家楽雁雲井雷太郎、広沢虎造が集まり、門出を祝った。

 1930年8月31日、JOAKの「浪花節大会」に出演し、「祐天吉松」を口演。共演は木村重松、東家小楽燕、東家左楽遊、早川燕平。

 1931年9月6日、JOAKの「浪花節大会」に出演し、「佐渡の高波」を口演。共演は妻川歌燕東家鶴燕、筑波雲、玉川太郎。

 1932年7月31日、JOAKの「浪花節大会」に出演し、「牧野弥右衛門」を口演。京山円玉、木村年子、敷島大蔵、天光軒満月が共演。

 1933年5月17日、JOAKの「侠客傳五夜」に出演し、最終夜の「天保水滸伝」を口演。

 1934年2月25日、全国中継に出演し「野狐三次」を口演。

 1935年4月、投身自殺をしようとして川におぼれていた女性を助ける――という意外な善行を施している。この自殺未遂者は「酒好きがゆえに周りから嫌われ、嫌気がさして死のうと思った」と、酒で身を持ち崩しかけている〆友に語ったというのがおかしい。

酒好の娘さん川へ身投 浪曲師に救はる
廿五日午後七時半ごろ本所区言問橋下流を廿五、六歳の女が浮きつ沈みつ流れてゆくのを通りかかつた浅草区柴崎町二二浪曲師浪速軒〆友こと平田金蔵(三二)さんが着衣のまま飛込んで助け上げた

『朝日新聞』(1935年4月26日号)

 1935年10月12日、全国中継に出演し、「野狐三次」を口演。

 1935年12月、ニットーより「櫓太鼓譽れの力士」を発売。

 1936年1月、ニットーより「野狐三次の初旅」を発売。

 1936年2月、ニットーより「野狐三次・お糸殺し」を発売。

 1936年3月、ニットーより「野狐三次・纏ぶり」を発売。

 1936年4月、ニットーより「赤城の子守唄・前編」を発売。

 1936年4月30日、全国中継に出演し、「赤城の子守歌」を口演。

 1936年5月、ニットーより「野狐三次・井筒屋の強請」を発売。

 1936年6月、ニットーより「赤城の子守唄・後編」を発売。

 1936年7月、ニットーより「野狐三次・完結編」を発売。

 1936年8月、ニットーより「若きの平手造酒」を発売。

 1936年9月7日、札幌放送局へ出演し、「櫓太鼓」を口演。

 1937年6月7日、全国中継で「不動山の東下り」を口演。

 1938年3月13日、全国中継で「野狐三次」を口演。

 1938年8月12日、NHK第2に出演し、「孝女お高」を口演。

 1939年1月、ビクターより「出征子守唄」を発売。

 1939年6月、ビクターより「母の日の丸」を発売。

 1939年7月、ビクターより「天保水滸伝」を発売。

 1939年10月10日、NHKに出演し「愛馬進軍歌」を口演。

 1940年9月27日、NHKに出演し「塩原太助」を口演。

 1942年7月12日、NHKに出演し「奉書試合」を口演。

 1942年11月2日、NHKに出演し「勇の纏」を口演。

 1943年2月16日、NHKに出演し「孝行の徳」を口演。

 戦後も寄席や劇場に出演していたが、思うような活動もできなかった。既に節も末枯れ、タンカも思うように出て来なくなった。

 最終的には引退に近い状態になってしまった。三羽烏の内の二人が戦後まもなく引退したというのは皮肉であった。

 正岡容は『日本浪曲史』の中で、

 〆奴が、二代目浪花軒〆友となった。「野狐三次」や「伊賀越」を得意とし、演技がややオーバーしている感じに歌って歌って、歌いまくり熱演大喝采だったから、落語における三遊亭圓歌のように出世するとばかりおもっていた。しかるに私のこの予想は裏切られ、圓歌は明朗に大成したが、なぜか〆友は飛躍しなかった。いまやその節は末枯れて秋の朝顔の花にさも似て、哀調かえって掬すべきであるが、もはや大衆はさして耳傾けようとしない。この〆友のかつてと今とを一体どんなおもいで眺めているか、質ねてみたい位である。

 と、その芸を評価されながらも発揮できなかった点を痛烈に批判されている。

 優れた芸を持ちながらも遂に大看板になれなかった背景には、凄まじい酒癖とアルコール依存症があったという。

 どこに出るのにもほろ酔いで出ないと浪曲が出来ず、湯呑の中に清酒を隠しておかないと浪曲が続かないという始末だったのだから、身体を壊すのは当然である。

 その逸話は木下華声『芸人紙風船』で見ることができる。

 浪華軒〆友。この先生は、アル中だった。お酒が切れたら、どうにもならない。いつもテーブルの脇の湯呑みには冷酒がはいっていた。それを知らないで私はうっかり白湯だと思って、一口飲んで目を白黒させたことがある。
 いい節は、ほろ酔いでないと出ない。

 実際、浦安の浪曲大会で酒を切らしてしまい、観客の前で卒倒しかけるというほどだったのだから、相当のアルコール依存症である。

 いよいよ〆友先生の出番になった。
「〆友、待ってました」
「たっぷりたのむよっ」
「祐天吉松」
 その声にこたえて、渋い節回しで、外題付けがはじまった。 客を立て、しーんとした。
 〆友は、切れ目に湯呑みを取って、ひとくち飲んで変な顔をした。
「おい、酒はどうした」
 弟子に声をかけた。そこに弟子がいない。いないはず、弟子は酒屋へ走っていたのだった。持参した清酒は八軒目に空瓶になってしまった。
「酒がねえ」
 〆友の声に張りがなくなってきた。
「いま、〆吉が買いに行ってますよ」
 三味線が小声で知らせた。
〆友は、真っ青な顔になり、扇の手がふるえだしてきた。
「お客さんよ。酒がねえと、祐天吉松死んじまうぜえ」
 そういうと、友のアル中を知っているのか、客席から一升瓶が出た。
「ありがてえ、これでは死なずに助かったぜぇ」
 いまおもえば、いい時代だった。

 戦中戦後はまともに酒が入る事もなく、それで悪酒を煽るものだからますます体調を悪くし、声も悪くした。酒さえなければ、天下をとれたかもしれない人物であった。

 芸人としては不本意な晩年であったが、酒と遊びを愛し、戦後も生き延びて72才まで生きた。

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