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大成直前の夭折・宮川右近
人 物
宮川 右近
・本 名 山名 信太郎
・生没年 1897年8月3日~1938年8月23日
・出身地 大阪?
来 歴
宮川右近は戦前戦後活躍した浪曲師。宮川左近の偽物のような名前であるが、れっきとした人気者でラジオやレコードで吹込むだけの実績があった。宮川派の新鋭として売り出そうとした矢先、病に倒れ、40になったばかりで亡くなってしまったという。
経歴は『東西浪界写真名鑑』に出ている。
本 名 山名信太郎
生年月日 明治三十年八月三日
師 匠 初代、宮川右近
初入門年月 大正三年四月
芸(十八番)姫路城ノ人柱、安土の鉄扇
趣 味 野球、マージャン
初 舞 台 岡山高砂座
師匠は初代宮川右近とあるが、事実上独立独歩だったらしく、当時の広告などでも「独立独歩」と記されていたりする。
美声と品のいい芸を売りにし、「義士伝」「石童丸」「坂崎出羽守」「姫路城の人柱」「本能寺」など武芸物や歴史ものを得意として読んだ。
1928年1月15日、JOAKに出演し「左甚五郎」を放送している。
1930年10月、オリエントより「千葉三郎兵衛」を発売。
1931年10月、オリエントより「山鹿護送」を発売。
1934年の番付では、岡本鶴治、京山福造などと共に「別格」扱いされている。
1935年11月、ニットーより「石童丸(前編)」を発売。
1935年12月、ニットーより「石童丸(後編)」を発売。
1935年の番付でも「別格」。
1937年、コッカレコードより「本能寺」「村上喜剣」を販売。
この頃、友人の息子の日浦秀雄が入門。「宮川右近坊」と命名している。ただし、梅中軒鶯童が芸の師匠であったという。この右近坊の後年が浪曲漫才で売った東洋日出丸である。
1938年の番付では、筑波雲、東宝軒寶玉と共に「三傑」に選出されている。
40の坂を越し、芸も脂がのってこれからという矢先、吐血をして倒れ、そのまま急逝をした。没年は『朝日年鑑 1940年』に記してあった。
死ぬ直前、台湾巡業が決定していたらしく、台湾の関係者たちを唖然とさせたという。
『台湾芸術新報』(1940年4月号)に、
終りに、古賀興行部の為に弁明して置く。全体今度の興行は、宮川右近一座を招ぶプランであってその準備をしてゐた処へ、突然、右近が大阪で吐血して再起不能といふ重態に陥入ったので、興行期日の切迫に焦って、右近に替るべき真打を捜させた結果が、この虎丸と決定したので、その内容を調査する暇もなく、招んだものであるといふ。
と、死因がそれとなく書かれている。
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