尾崎紅葉、名残のブリタニカ国際大百科事典

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尾崎紅葉、名残のブリタニカ国際大百科事典

 尾崎紅葉は若くして胃癌を患い、最期は闘病と衰弱の日々を過ごしていた。
 余命3ヶ月などと噂されていた頃、当時最大の本屋取次と謳われていた丸善本店に尾崎紅葉が現れ、「ブリタニカ百科事典を予約したものだが、どうも都合が悪くなったのでセンチュリー百科事典をくれ」と、新品同様の札束を置いていった。
 それを聞いた内田魯庵は見舞いがてら「そんならブリタニカにしたらどうだ。もう2ヶ月経てば荷物が来るだろう」というと、紅葉は弱々しく、
「医者からすでに余命3ヶ月と宣告されている。生き延びようとは決して思わないが、欲しいものは頭がはっきりしているうちに自分のものにして、一日でも長く見ておかないと執念が残る。字引に執念が残っておばけになるなぞ、男が廃る」
 と言った。それから間もなくして紅葉は死んだが、特に化けて出る様子はなかった。
 内田魯庵はこのことを回想して、
「病気のためにも病床の慰みにも死後の計の足しにもならぬ高価な大辞典を瀕死の場合に買うというのはあまり聞かない話で、著述家としての尊い心持ちを死の瞬間まで忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝えるのに値する」
「紅葉は決して唯の才人ではなかった」
 と、かつての論敵を激賞している。

内田魯庵『思ひ出す人々(元はきのうけふ)』

 尾崎紅葉は、若くして成功し、夭折した明治文学の大親玉的な存在である。『金色夜叉』を筆頭に、『三人妻』『多情多恨』などの傑作を残し、多くの後進の面倒を見た。

 早くに成功をしたせいもあってか、よくも悪くも親分気質で、リーダーシップを張らないと色々と不満を持つ人であったという。

 身内には優しいが、他には「お山の大将」と目されることが多く、斎藤緑雨や内田魯庵などの戯作派、国木田独歩、田山花袋などの自然主義派閥とはあまり馬が合わなかった。

 魯庵と紅葉は一定の交友こそあったものの、作家気質の紅葉、評論家で毒舌気質の魯庵では水と油のきらいがあった。

 そんな紅葉であるが、胃がんを宣告され、物も食えず、激痛や末期癌の症状に苦しむ中で、ヴィクトルユーゴの傑作「ノートル・ダム・ド・パリ」の邦訳に携わっていた。

 その翻訳をうまく進めるために辞典を求めた――が、上手くいかなかった。そんな背景から上の逸話が生まれた。

 論敵は論敵でも認め合った仲での論敵――これもまた良き話ではなかろうか。

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