市村羽左衛門の疑問と軽焼(都新聞芸能逸話集)

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

市村羽左衛門の疑問と軽焼

ものにあんまり頓着しない羽左衛門が小首をひねつて、十次郎の鎧だがネ、鎧櫃から出して抱へて奥へ入る時には、抱えるのに都合がいいやうに小さかつたのに、二度目の出に着て出る時は立派な大きな鎧になつてゐるのは、いかに芝居でもおかしな話ぢやないか……、にあのむつつり屋の羽太蔵がおほかた陽気が温かいので伸びたのでせう橘屋ニガ笑ひながら、軽焼ぢやあるめえし……

1939年3月19日号

 歌舞伎は嘘だらけの芸術である。舞台の誇張とはいえ、武器や道具が大きくなったり小さくなったりする。

 これを演出の一環として楽しむか、馬鹿々々しいと唾棄すべきかで歌舞伎の楽しみ方が変わってくる。

 そんな嘘を理屈で埋めようとしたのが、團菊世代であった。「活歴運動」と称し、彼らは考証や時代設定にあった服装や道具を用い、誇張を少なくした――が見事に大失敗をした。歌舞伎の味というべき誇張をなくしてしまうと、そこにあるのは虚無だけであった。

 活歴の流れはあまり受け継がれず、今に至るがそうした難癖は今も時折あるようで、時々変な舞台に遭遇する。理屈なのかもしれないが先人の型や扮装を軽々しく変えるのはどんなものか。

 市村羽左衛門が疑問に思ったのは、「太功記十段目」の武智十次郎の鎧の事である。十次郎は光秀の倅として描かれ、父・光秀が主君殺しをしたために世間から冷たい視線を浴びせられ、死ぬと判っていながら鎧をまとって初陣をする――という悲壮なキャラである。

 その十次郎が初陣を覚悟して鎧に着替える際には抱えるほどの小サイズであるのに、出陣の恰好は大きな鎧となる。これも変なものであるが、歌舞伎の嘘であろう。

 これに減らず口を叩いている弟子の羽太蔵は、後に橘抱舟と名乗った舞踊家。新作舞踊の旗手として知られたが一種の奇人であったとも聞く。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました