傘の1ダース買いをしたい内田百閒

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傘の1ダース買いをしたい内田百閒

 ある夏の日の事。内田百閒は、友人の学舎・辰野隆夫妻とともに船旅をしていた(豪華客船に乗り込んで横濱神戸間の行き来)。
 夕食後、デッキに出て海風を浴びてたそがれていると、突如百閒が辰野の妻に向かって、
「お宅のご主人は時々傘を忘れておいでになりませんかね」
 と訊ねた。妻は恥ずかしそうに、
「ええ、時々どころか、何時も忘れてしまいます」
 との返答に、百閒御大、泰然として、
「そうでしょう。お宅のご主人に限らず、我々も傘を忘れますね。私などもよく忘れては家内に叱られます。全体傘の一本買いってのは、米の一升買いのようでみっともないですよ。歴としたブルジョアは、傘をダースで買うべきですよ。今後はそうなすったらどうです」
 と意見をし、辰野夫妻をあきれさせた。その百閒はというと、1ダースも買う金がないために、やはり1本買いを旨としていたというのだからおかしい。

 辰野隆『畸人の印象――内田百閒』

 内田百閒は、借金と浪費を繰り返した中で傑作を生みだした作家である。面白いのは、少し節制すれば、仕事がもらえて印税に転がってくるのに、「他人が汗水たらして稼いだ金を、こっちが必死になって頼み込んで借りるのが楽しい」という理由で、借金していたのである。

 嵐山光三郎氏曰く、「百閒にとって借金とはやめられないゲーム中毒みたいなもの」の評であるが、真にその通りである。

 そのせいか、「金がない、金がない」と言いながらも生活は万事派手で、金に糸目を付けぬ。そのくせ、シャンペンにおからをつまんで晩酌するようなちぐはぐが生まれても、平然としている――そんな所に百閒文学の根底があるといえるだろう。

 自分はできないくせに、変なホラというか、見栄を張るのも百閒流で、それが貧乏人の僻みにも、金持ちの嫌味にもならず、百閒先生のいつものこと――というご愛嬌になるのも、また強味であった。

 散々わがままをしながら、それがわがままにならない、嫌味にならない、そこに百閒の面白さがあるといえるのかもしれない。

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