釜の蓋を盗まれた森田思軒

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釜の蓋を盗まれた森田思軒

 1896年11月26日の白昼夢、上根岸の森田思軒の家に泥棒が入った。泥棒は書籍や原稿には目もくれず、床の間にあった財布、それに森田思軒愛用の釜の蓋を盗もうとした。
 幸い通りかかった警官がこれを発見し、泥棒を取り押さえて御用となった。
 犯人は十六歳、十五歳の紙くず拾いの青年で、金に困ってやったと犯行を認めた。
 蓋の無くなった釜を見ながら、思軒は「蓋ばかりが風流じゃない」と笑ったという。

『読売』(1896年11月28日号)

 森田思軒は明治20~30年代にかけて、翻訳小説や評論で一世を風靡した、明治を代表する作家である。

 今日読む事の出来るユゴー、ポー、『十五少年漂流記』などの紹介や翻訳はこの人が担う所が大きい。

 今日ではその翻訳のアラが指摘されたりもしている。世界観を日本に変えたり、言葉を変にひねったりとそういうきらいは確かにある。原作を翻訳――といいながら、「翻案」に近い部分もあるのは事実である。

 一方で、未熟なりとも紹介をしてくれたおかげで、多くの作家や文学青年たちが海外文学の世界を知り、そこから作家や翻訳家の道を進んだ――ということを考えると、 森田思軒は大変な種を蒔いたという事となる。

 さらに、その独特の翻訳文体は「思軒調」と高く評価され、一時代を築いた。 森田思軒死後には衰退してしまうものの、ここから小説や翻訳の振出をはじめて、後に大きな仕事を残した作家たちも多々いる。

 そんな森田思軒であるが、翻訳で当たったことに加えて、ジャーナリストとしても一流だったことから、当時の作家としては珍しく高給取りで、根岸にあった立派な家を借り、ここを終の棲家とした。

 その賃料は何と「9円50銭」(『近代文学研究叢書』)。明治30年の警官の初任給が「9円」だったことを考えると、今では「月20万」。トンデモナイ高級物件である。

 しかし、森田思軒はそれを払う余裕があったというのだから大したもの。晩年は当時の一大新聞「万朝報」からの報酬もあってか、悠々自適の生活だったという。他の作家の借家住まいがウソのようである。

 そうした安楽な経済事情から、後年は翻訳も積極的に発表しなくなってしまった。給金だけで食っていける上に、時たま翻訳を出せばそれだけでも莫大な額になる。

 故に、森田思軒の晩年は茶道や読書など、趣味三昧の日々だったという。そんな森田思軒の余裕や強味が上の逸話からも読み取ることができるであろう。

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