アイスクリームにソースをかけた大橋乙羽
尾崎紅葉の友人で、硯友社系の作家でありながら、後年出版社の「博文館」の社長・大橋佐平に見込まれて、大橋家に婿入りし、同社の支配人となった大橋乙羽。
江見水蔭『硯友社と紅葉』
学もあり、才もあり、円満な人徳――という稀に見る人格者であったが、そそっかしい一面もあったという。
明治24年頃、硯友社の社員たちが集って、当時の一流レストラン・神田万代軒で総会を行った。
江見水蔭は、大橋と共に洋食を食べる事となった。フルコースをたいらげ、最後に出てきたのは「いちごのアイスクリーム」。
一同、目を丸くする中で、大橋はいきなりソースをドバドバとかけだした。
まわりの者たちは驚きあきれ、後で理由を聞くと「紫紅色で、平皿に乗っていたので洋食の一種かと思った」。
日本における「編集者」の地位を確立した大橋乙羽。
円満かつ理知的な性格で、派閥を問わずに作家たちの作品を文学雑誌『文芸倶楽部』を発行。樋口一葉の『たけくらべ』『にごりえ』、まだ下っ端であった小栗風葉、徳田秋声の作品を掲載し、一躍文壇の注目の的へとのし上げたのも、この乙羽の尽力あっての事だという。
作家に対して厳しい態度で臨んだものの、いい所は徹底的に褒めるスタンスをとった。田山花袋を「小説家としては認めないが、紀行文作家としては一流」と評したのはいい例であろう。
また、文化人や官僚、政治家といった当時の第一線を投入して練り上げた総合雑誌『太陽』、写真や漫画を取り入れた『太平洋』など、後の雑誌に大きな影響を与えるスタイルを構築した。
評論家・坪内祐三は論文『編集者大橋乙羽』の中で、「その前の時代を代表する編集者が、実は、大橋乙羽だった。近代日本の出版世界で、職能としての編集者を確立した最初の人物が彼だった」と、その功績を高く評価している。
欧米出張の無理がたたり、インフルエンザを拗らせて32歳の若さで夭折したが、もし長生きしたならば、講談社も小学館も足元に寄せ付けない大会社を作り上げたかもしれない。
そんな天才編集者の人間らしい姿を見せるエピソードである。
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