文豪と夭折の天才の一期一会

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文豪と夭折の天才の一期一会

 幸田露伴は夭折の天才音楽家、滝廉太郎と面識があった。
 そもそものきっかけは、滝廉太郎の師匠が、幸田露伴の妹「幸田延」だったからである。
 日清戦争の勃発や国粋主義の流行を目の当たりにして、「果たして音楽は必要なのか」と苦しんだ滝廉太郎を救い上げ、再び立ち上がらせたのが幸田延であったという。
 以来、廉太郎は幸田一家と親しくなり、時にはテニスを興ずるなどした。
 ある時、幸田延は「兄に会わないか」と誘ってきた。当時露伴は売り出しの作家。廉太郎とは12歳の開きがある。

 対面当初は畏怖するばかりで、口もロクロク聞けなかった。しかし、露伴はそんな純朴で才能溢れる滝廉太郎を一目で気に入った。以来、「いつでも遊びに来るように」と声をかけてくれるようになった。
 廉太郎も廉太郎で、はじめはあれだけ畏怖していた露伴に口を聞けるようになり、対等な立場で音楽論や芸術論を論じられるようになった。
 ある時、露伴は廉太郎をつかまえて、「これからの日本の音楽も、洋楽にも、日本人に相応しい詩を生まねばならない」と持論を展開した。
「そのためにはどうすればいいですか」と滝廉太郎の疑問に対し、「それには文学的な素養を育まねばならない」と答えた。
 この直後、廉太郎は音楽修業のために渡欧する事となった。たった四ヶ月の縁であった。
 廉太郎は、その旅先で若い命を散らすのだが、病苦の中で彼は傑作を生みだし、今なお愛される音楽家としてさんさんと輝いている。

『歴史読本 特別増刊号 1988年11月号』

 意外なめぐりあわせは存在する。縁は異なもの味なものというべきだろうか。

 幸田露伴と滝廉太郎のめぐりあわせも、本来ならば絶対合わなそうな二人があった所に面白みがある。師匠が幸田露伴の妹という縁でこそあれ、意気投合をしたというのもまた縁であろう。

 ちなみに幸田延と滝廉太郎が懇意になった背景には、テニスがあるという。

 当時西洋から持ち込まれ、徐々に興じられるようになったテニスを、幸田延の妹で廉太郎の兄弟弟子の幸田幸(安藤幸)がはじめ、それを廉太郎がマネするようになった。

 その二人の楽しそうな姿を見て、延もプレイヤーになったというのだからおかしい。

 ちなみに滝廉太郎は、なかなかの強豪だったそうで、あの虚弱そうな顔とは裏腹に、俊敏なスマッシュや異動を得意としたという。

 まだ元気だったこともあってか、颯爽とテニスラケットを振るう姿は、音楽学校の貴公子として扱われ、当時の女学生の注目の的だったという。

 これもまた、廉太郎の意外な一面である。

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