玉井の可楽、表彰される(都新聞芸能逸話集)

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玉井の可楽、表彰される

可楽が京橋の東朝座で「無精床」を弁じてゐると前にゐた酔つた客が「俺はお前が贔屓だが、今夜は何うしたものか出来がわるい、罰金に踊りをどれ」と迫つて、何といつても承知しない、可楽拠ろなく立上つて、これ一つしか知らぬといふ「獅子ホン」を踊つた、珍芸だといふので聴衆大喜び、これを聞いた協会の馬楽と文治が、何といつても芸人は高座に上つてゐる中は客の機嫌を取るべきもの、可楽が逆らはずにたつた一つしか知らぬ踊りを踊つて見せたのは感心と、其心懸けを表彰する事にきめたといふ

1927年5月21日号

 玉井の可楽とは七代目三笑亭可楽の事である。芸能評論家の安藤鶴夫が彼の芸に心酔し、小説を書いたほどであった。

 三代目柳家小さんの影法師と謳われるほど、三代目の芸や呼吸にそっくりであった。ただ晩年まで地味な芸風であり、寄席や教会からは冷遇をされていた。呼吸はうまかったが、如何せん地味なので、あまり熱が上がらなかったともいう。

 そんな可楽が七代目三笑亭可楽という大名跡を継いだのは、1926年の事であった。関係者から疑問の声も出たらしいが、幹部たちの推薦で押し切る形で成ったという。

 地味である事はぬぐえなかったが、安藤鶴夫に私淑され、その名を残した点を考えれば立派に名跡を継承したといえるではないだろうか。

 因みに可楽の態度に感心して、表彰しようと提案したのが、後の四代目柳家小さんと八代目桂文治である。両人とも落語協会の会長になったというのは何かの縁か。

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