市川男女蔵ともやしの娘(都新聞芸能逸話集)

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市川男女蔵ともやしの娘

菊之助の結婚披露の席上では、いまだ嘗て六代目のあんな嬉しさうな顔を一遍も見た事がないと云ふ評判だつたが、自分の子供の結婚といふとあんなに嬉しいものなのかしら、としみ/\羨ましくなつた男女蔵、家へ帰ると妻君に、十万倍拡大の顕微鏡が発明されたといふ世の中に、箱かなんかへ入れて置くと娘が一度に十七八になるやうな機械が発明されないものかなア、豆のモヤシぢやあるまいし

『都新聞』(1938年5月29日号)

 市川男女蔵こと、三代目市川左團次は跡継ぎに恵まれず、長い間悩んでいた。その末に養子を取った。それが今の四代目市川左團次である。これは四代目自身も公言しており、「自分は京都の出身で、父親が三代目の贔屓だった関係から養子に出された。長らく京都へ行くと母や兄三人と会っていた」。

 ちなみにその三代目左團次には子供がいなかったか、というと嘘である。ただ、全員が女だったために跡が継げなかった。歌舞伎残酷物語である。

 長女は朝子といい、1925年の生まれ。次女は慶子(ヨシコ)といい、1926年生れ。三代目左團次に溺愛され育った。

 今の左團次とは15歳近く年が離れていた関係もあり、左團次が物心ついた時には既に成人女性として家事手伝いや働きに出ていたという。

 左團次はこの義姉にアレコレ面倒を見てもらったそうで、学生時代の弁当やらなんやらは全部この姉がやっていたと聞く。

「三代目左團次には子供がいない」という資料は間違いなので気をつけましょう。

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