黒岩涙香はブラックシープ?

黒岩涙香はブラックシープ?

 今日では「日本近代文学の推理小説・ミステリー小説の始祖」的な存在として評価される、作家の黒岩涙香であるが、新聞社『万朝報』の社長で翻訳家という才人でもあった。
 良くも悪くも明治~大正を代表する言論人で、日露戦争を巡る「戦争反対の是非」や「翻訳文学論」「スキャンダル報道」などで一時代を築いた。
 そんな黒岩涙香であるが、若い頃は自由民権運動の壮士で、何度も官憲と対立。罰金や説教は数知れず、一度は有罪判決を受けているほどであった。
 ある時、黒岩の友人である香川怪庵の元に「土佐の愛読者」と名乗る謎の人物から怪文書が届いた。曰く、

「黒岩涙香の父親は今も土佐で寺子屋をやっているが、倅が東京でお上の悪口を言っているらしい。あれでは到底出世できまい。土佐に帰ってこいと言っても、帰らぬには困る」云々。

 所謂、親の知人をかこつけた黒岩批判であった。
 これを読み終えた香川は、これが真実かどうか、さっそく手紙をしたためて送った。
 数日後、きちんと答えが返ってきた。
 曰く、

「余が父一郎は手紙の通り、寺子屋の先生であり、文芸以外にも算学・天文・砲術・弓槍なども教えている。明治の初年には改暦等で建白をした実績もある。しかし、その父は明治八年、東京で死んでいる。手紙とは内容が違う」(※本来は擬古文調)

 という。更に黒岩は、

「父の門人の多くは清廉方正な人が多い。門人の中には、岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)のような下らぬ俗人もいるが、それは岩崎の元々が悪いのであって、父のせいではない」
「自分は一族中の黒羊(ブラックシープ)で、家訓に負ける所が随分あるものの、お上の悪口は言った覚えがないし、そもそも『出世しろ』と父に言われた事もないし、下手な出世は、父の意に背くものではないか」

 と、相変わらずの切り口で、投書者のデマを切り捨てたという。

香川怪庵『風聞録』

 黒岩涙香というと、今日では「日本で最初の推理小説作家」(※諸説あり)、「レミゼラブルや巌窟王を翻訳して、日本に紹介した翻訳者」的な、海外文化の紹介者として語られることが多い。

 事実、黒岩の翻訳した作品群は、これまでの日本にはない作風として、多くの文学愛好者を熱狂させ、西洋文学研究の礎を築く事となったわけ。

 黒岩が原作を無視して書き換えたり、省略してしまった所こそあるものの、黒岩自身がなかなかの名文家で、わかりやすくほどいていく文章は、まだ海外に疎かった日本人にも受け入れられる一助となったようである。

 そんな黒岩であるが、若い頃は『マムシ』と綽名されたジャーナリストで、事件や案件とあらば、しつこく噛みついて離れない――今日でいうパパラッチ的な取材態度で知られた。

 また、言論人としてもなかなかの皮肉屋で、華族や大企業の醜聞を平然と記事にしたり、弾圧や勧告をのらりくらりかわす所もあった。

 一方でジャーナリストの悪いくせというべきか、意見をコロコロ変える癖があり、「日露戦争反対」からの「主戦論」は内村鑑三や堺枯川を激怒させ、一斉退社を招くなど、問題もあった。

 しかし、骨があったのは事実で、言論の自由の制限があった時代、これだけ論を展開した人もそういないのではないだろうか。

 そんな黒岩涙香の骨の髄を見られる逸話である。

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