幸せになるには骨がありすぎた斎藤緑雨

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

幸せになるには骨がありすぎた斎藤緑雨

 上田万年と斎藤緑雨は幼い頃からの友人で、その交友は緑雨が死ぬまで続いた。
 貧困に苦しみながら夭折した斎藤緑雨と引き換え、上田万年は帝大教授、文学部長と出世し、曲がりなりにも当代を代表する学者、文化人として君臨する事となった。
 ある時、帝大の教え子の一人、辰野隆が「近々洋行する」と暇乞いに訪ねてきた。
 辰野隆が斎藤緑雨が好きだと知ると、「君のような若い人が読むのか」と驚いたが、夭折した友人が今なお忘れ去られてない事に感動し、ぽつりぽつりと緑雨の思い出を話してくれたという。
「彼は先天的な文士だった」
「斎藤は肺病で、晩年は随分衰えていた。僕達が費用の心配はしないでいいから、病院に入ったらどうだ、と忠告したが斎藤は固辞するばかりだった。その時の言い草を今でも覚えてる。『あんまり道草食わずに、いきなり日暮里へ行こうよ』」
 当時、日暮里に火葬場があり、帝大病院へ行く暇があったらさっさと死んで火葬場へ行きたい、という緑雨一流の皮肉であった。
 そして、ある程度話し終えると、黯然たる口調で、

「緑雨という男は幸福になるには骨がありすぎた。小骨もね」

辰野隆『上田万年と斎藤緑雨』

 相当な才能を持ちながらも貧苦と病苦と時代の荒波にもまれて夭折した斎藤緑雨、教授として博士として大学や学会に大きな影響を持ち、多大なる権力と名誉を得た上田萬年は、境遇や生涯こそ違ったが、緑雨が死ぬまで良き親友であり続けた。

 上田は緑雨亡き後、緑雨の顕彰や記録などにも努めている。

 二人の出会いは早く、少年の頃から既に面識があった。緑雨に言わせると、「上田君は中々ずるい男」、萬年に言わせると「緑雨は骨がありすぎ」と、時折喧嘩をしながらも、その仲は生涯揺らぐことはなかった。

 そんな盟友が、たった一言で評して見せた「斎藤緑雨」という男の姿や性格。

「緑雨という男は幸福になるには骨がありすぎた。小骨もね」

 とは、なかなかいえるものではない。名評中の名評といえるであろう。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました