土井晩翠と登張竹風の「晩竹名残の対面」
「荒城の月」の作詞で知られる詩人・土井晩翠と、ドイツ文学者の登張竹風は、親友の間柄で60年近い交友を保った。
阪本勝『ますらを竹風先生』
戦後、土井晩翠は老衰や病気がひどくなり、寝たり起きたりの闘病生活を送った。その中で仙台市名誉市民(1949年)、文化勲章(1950年)、文化功労者(1951年)といった名誉に恵まれたが、既に老衰激しく、面会謝絶の日々を送っていたという。
そんな土井晩翠の老衰を知った、登張竹風は「最期の別れ」と決心して、仙台へ上り、土井晩翠の家を訪れた。竹風からすれば、最後に一目見られればという腹だったらしいが、土井晩翠は古い親友が来ると知るや、周りの止めるのを聞かないで、羽織袴に正座をして、竹風を出迎えた。
そして、自分の体調不良をおして、竹風に酒を勧め、夜遅くまでもてなした。
酒が好物な竹風は、友の心づかいに感動をしながらも、「これがこの世の最後の逢瀬」と思うと、胸が恋しさでいっぱいになったという。
そして、竹風は土井晩翠との別れを惜しみながら、仙台を去った。
その後間もなく、土井晩翠は静かに息を引き取った。
関係者は一連の話を「晩竹の別れ」という呼称で、深く敬愛したという。
土井晩翠は『荒城の月』に代表されるような、雄大な詩を書く明治~昭和を駆け抜けた大詩人、登張竹風はドイツ文学を専攻し、ニーチェや思想哲学を論じ続けた研究一筋の人であった。
性格も両人ともに真面目で、慇懃だったところから、ウマがあったらしく、二高では同じ職場で机を並べた事から、同僚として、文学仲間として一層仲を深める事となった。
彼らから薫陶を受けた教え子の一人に、兵庫県知事の阪本勝がいる。
定年後も交友を続けていたが、戦争がそういった関係を引き裂いてしまった。晩翠は仙台へ疎開し、竹風もまた空襲で焼き出され、疎開をする羽目になった。
戦争が終わった後も長い間の交通難や物資不足で旅もままならず、手紙さえ気安く送れない時代が続いた。
その中で晩翠は発病、竹風も己の老衰を自覚し、最初で最後の晩翠訪問を決する事となった。
その美しくも儚い対面が上の通りである。友情とは美しきことかな。
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