幸四郎が親なら娘も娘 (都新聞芸能逸話集)

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幸四郎が親なら娘も娘

明治十四年十月、本郷の春木座で初舞台を踏んで以来今日まで病気や事故で舞台を欠勤した事のない幸四郎、その幸四郎の愛娘藤間弘子さんは今年で愈々山脇高女を卒業するが、卒業生二百余名のうち、弘子さんは無欠勤で学校から表彰された、此の親にして此の子とでもいふか

1931年3月21日号

 松本幸四郎は歌舞伎界随一の子福者として知られ、歌舞伎役者になった息子や娘婿全員が出世したという教育者としても知られた。今日も歌舞伎界の中心にいるのはこの幸四郎の直系であったりする。その影響力の大きさと言い、教育の成功といいい、近代歌舞伎における第一人者ではないか。

 長男は市川宗家に養子に入り市川團十郎、二男は吉右衛門の娘婿となった八代目松本幸四郎、三男は菊五郎の芸養子的存在であった尾上松緑、更に娘婿が中村雀右衛門というのだから相当に恵まれている。

 ここで取り上げられている弘子は、松本幸四郎の長女で藤間三兄弟のすぐ下の妹にあたる。1914年9月の生まれなので、二代目松緑(1913年生れ)とは年子であった。

 この弘子は、「藤間ひろ子」の名義で子役として舞台に立っていたが、成長と共に芸能界を離れ、学問の道へ入った。当時としては珍しく女学校を卒業し、三井銀行の銀行員・昌谷忠と結婚している。

 昌谷忠の家は、代々続く官僚の一族で、幸四郎を贔屓にしていた関係から縁づいたものだという。歌舞伎界から官僚界隈まで縁づいた人はそうおるまい。こうした幅の広さも藤間一族の権威の強さに繋がっているのではないか。

 この弘子は父譲りの壮健さを見せて、1999年85歳で亡くなるまで矍鑠と生きてみせた。兄たちが相次いで病に苦しむ中で、一人父の齢を超えてみせたのは、父からの最大の贈物ではなかったか。

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