薄田泣菫、最後の帰郷

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

薄田泣菫、最後の帰郷

 薄田泣菫は長らくパーキンソン病を患っており、徐々に動かなくなる体や口の恐怖や不安と戦いながら、その半生を送った。
 今以上にパーキンソン病が謎と目されている時代、彼の不安は幾許なる物だっただろうか。
 それでも、根が丈夫だったのか、家族の介護や協力を得ながら、口述筆記を続け、死ぬ直前まで随筆を発表し続けた。
 皮肉な事に、自分よりも元気であったはずの親友・高安月郊や弟の鶴二は先立つ結果となった。
 長らく西宮分銅町に住んでいたが、目前まで空襲が迫っていることを知り、疎開を決意。
 終戦直前に、娘の住む倉敷までタクシーで移動、さらに井原市(当時の井原町)まで疎開をするなど病身にムチを打ち続けた。
 その中でも薄田泣菫は生き続け、8月の終戦を知った。
 自由が訪れ、空襲に怯えることが無くなった一族は、少しでも薄田泣菫を楽にしてあげようと考え、生家に戻そうと画策した。
 このときの泣菫の病状は終末期にまで達し、意識も危うくなり始めた。
 それでも、家族や仲間は泣菫の身を案じ、故郷へ帰る事にした。
 10月4日、生家の連島に戻った。家族や仲間が担いで家に入れる形となったが、家の門に入る時に妻が「生家ですよ」と囁くと、泣菫は静かに頷いたという。
 それから5日後の10月9日、泣菫は家族に看取られ、故郷の土の上で静かに息を引き取った。
 生前、泣菫は「派手な戒名はいらん。泣菫之霊だけでいい」と語っていた事を尊重して、戒名は『泣菫居士』となった。

薄田桂『父泣菫の死』

 薄田泣菫は、戦前を代表する詩人・エッセイストである。

 今では忘れられかけた存在にこそなっているが、その荘厳な詩作や理論は、島崎藤村・土井晩翠などといった初期詩人の流れを汲みながら、一層昇華されたものであり、明治大正期の青少年や文学愛好家を熱狂させた。

 蒲原有明と共に長らく詩壇をリードし、「泣菫有明時代」と呼ばれるほどの人気を博した。彼の影響で詩作に走った人も多く、現代詩の嚆矢と目す人も存在する。

 また博学で自身も文章を得意としたことから、多くの作家や知識人とも付き合いがあった。

 新人気鋭の芥川龍之介を大阪毎日新聞に招聘し、創作活動に専念させた功労者でもある。

 さらに、大阪毎日新聞を中心にコラム「茶話」を掲載。小噺調の連載であるが、その時々の季節や世相を風刺した短文は、広い人気を集め、「起きてまず茶話を読む」などという行為が、流行になったほどである。

 その人気を受けて、各社もそうした作品を掲載するようになった事から、「コラムニストの先駆け」とも目される場合もある。

 今日も『茶話』の一部を読むことができるが、まったく古びた所がなく、楽しく読める。おすすめする。

 そんな薄田泣菫であるが、若手時代を除いてはその生涯のほとんどを関西で過ごしていた。

 パーキンソンや戦争に振り回されながらも、懸命に生きた薄田泣菫の最初で最後の里帰り、夢をかなえた臨終を示す、感動的な一篇である。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました