岡倉天心の「絵を辞めちまえ」は愛のムチ?
1904年2月6日の晩、作家の正宗白鳥は、上野公園の梅川楼で行われた「寺崎広業送別会」に出席した。寺崎は日本美術院の大御所で(日本美術院の創設者でもある)、当時を代表する日本画家であった。
正宗白鳥『文壇五十年』
その主宰の一人が、同僚の岡倉天心。
正宗白鳥は岡倉天心の風貌に、「いかにも東洋の豪傑らしく、水滸伝中の人物の面影」を見出したが、そこから発せられる声が「破れ鐘の如き大声」ではなく「繊細な音色」であったことに驚いている。
しかし、宴が進み、杯を重ねるようになると、岡倉天心は酔った勢いで「汝らは画家に非ず」とクダをまき始める。
その毒舌は、弟子だけにとどまらず、主賓の寺崎広業にまで及んだ。
「絵を描けるのは雅邦先生(※橋本雅邦)だけだ。お前たちはやめてしまえ」
寺崎はあから顔を揺さぶりながら、
「私はくず拾いになります」
と答えると、天心は、
「それがいい」
気が気でないのは橋本雅邦で、岡倉天心の後ろについては大真面目な顔で、
「先生がああ仰るのも、諸君を励ますためなのだ」
と取りなすのが常であった。
その酔態に驚いた正宗白鳥。後日、橋本雅邦の弟子で、日本画家の売れっ子であった川合玉堂に、「先日こんなことが」と尋ねると、玉堂は笑いながら、
「先生はいつもああいう事を言う人だよ」
と答えた。
岡倉天心は良くも悪くもやり手であった。毒舌を吐き、見栄を張り、衝突も厭わない。
そのくせ、ほれた人物には徹底的に尽くし、弟子や関係者に罵詈雑言を吐きながらも、ちゃんと見返りや活動の場を与える。
問題児気質を抱えながらも、カリスマとして高く評価され、その生涯を駆け抜け――今なお、日本美術界の親玉の一人と目されるのは、こうした人心掌握術にたけていたから、かもしれない。
そんな天心の、偽りない素顔を、やはり皮肉屋で写実的な正宗白鳥があるがままを描いている。
皮肉屋、皮肉屋を知るというべきか。
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