「我こそは日本男子」の馬場辰猪と意外な前座

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「我こそは日本男子」の馬場辰猪と意外な前座

 馬場辰猪は明治時代に活躍した自由民権運動家、思想家。樋口一葉の親友であった馬場孤蝶の実の兄でもある。
 初期の自由民権運動の旗手として、自由党の結成や論陣の育成に奔走。薩長中心の政府や官僚の腐敗を糾弾し、「自由」を求め続けた。38歳の若さで夭折するが、その情熱や信念は後の政治家や学者たちに受け継がれた。
 そんな馬場辰猪は、最晩年、自由民権運動にかかわる諸事情でアメリカに亡命し、アメリカの地で「日本とはなんぞや」という啓蒙演説を行って、その講演料で暮らしを立てていた。
 しかし、当時は今以上に黄色人種差別が激しく、「黄色い猿」などと揶揄されるのは日常茶飯事。
 いくら崇高な思想と達者な英語があった所で、普通に洋服を出て演説をぶったところで、「お前は中国か、日本か、それともどこだ」などと嫌味を言われていた。
「我こそは日本男児」と任じる馬場辰猪、何を考えたのか、日本から鎧兜を取り寄せて、武者姿で壇上に上がって講演を行った。
 流石の欧米人もこの姿にはあっと驚いたという。
 そんな馬場辰猪も少しずつ顔が売れてくると講演の前座が欲しくなった。しかし、ヨロイで舞台に上がるような人の前に上がるような人物はそうあるものではない。
 そこへ、「僕がやりましょう」と一人の青年が現れた。
 その青年こそ、福沢諭吉の養子・福沢桃介であった。
 桃介も桃介で、鎧兜で演説する馬場辰猪を何とも思わないどころか、「この人は日本で有名な侍です」などとご高説を論じていた――というのだから、類は友を呼ぶというべきか。

松永安左衛門『福沢桃介さんの思ひ出』

 馬場辰猪は、土佐藩士の倅で、元々は侍であったが、福沢諭吉の門下で政治史を学び、岩倉使節団でヨーロッパへ留学。

 同地で自由民権運動と言論の自由を学び、帰国後は星亨や小野梓、犬養毅などと結託して、薩長中心の政府を批判する傍ら、法学や思想を論じ続けた。

 過激な政府批判や大胆な思想運動、論述で何度も検挙され、演説禁止を命じられるほどの苦労人であったが、初期の自由民権運動の闘士として、後進に大きな影響を与えた。

 そんな馬場辰猪が晩年に、かつての恩人の息子、福沢桃介の面倒をみていたというのだから、縁は異なもの味なものである。

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